佐渡の美味い酒、美味いモンを「私、熱燗小僧」がお届けします ただし、二十歳に満たない方へお酒は売りません

この一本に衝撃を受け

皆さんは今まで生きてきた中で、何かに衝撃・感動を受けた事ってありますか?
私が一本の酒から受けた衝撃についてをお話ししますんで少しだけお付き合いください。
 
私が、ここ伊藤酒店の娘、今のかあちゃんと一緒になったのが平成3年でした。
それまで酒の事なんか何にも知りませんでした。ただ、酒を見た事はありますし
酒蔵の匂いみたいのものも何となく知っておりました。
 
なぜか・・・私の母親の実家が造り酒屋だったからです。
これまた不思議な縁です。
 
私の実家は写真屋でコスギフォトといいまして今は兄が継いでおります。
ですから私は25年前に伊藤酒店の娘と結婚し婿として四半世紀を過ごして
来たわけです。
結婚したては、酒の事なんか何にも分からずただホテル・旅館にビールや酒を
ひたすら運ぶ毎日でした。と言うても佐渡の観光シーズンが4月から11月の
頭まででしたから、シーズンオフは特にすくことも無く(本当はあるはずなん
ですが…)のんびりしておりました。
でもある時、ふと思うたんです。
 
『酒を売る立場の人間が、酒の事も酒がどうやって出来るかも知らんようでは
ハナシにならんなー』と。
そこで『酒蔵へ行って、酒造りを見せてもらおう』となった訳です。
で、じゃあどこの蔵へ行こうかと考えた時、すぐに思い浮かんだのがあの
逸見酒造だったんです。代表銘柄は「真稜」、今ではすっかり「至」が有名に
なってしまいましたが。
この逸見酒造の人が配達に来る時の感じが、特に当時の社長さん自らが配達に
来られた時のあの「飾りっ気のない人柄」がえらく好きなもんで、『逸見酒造
へ行こう』と決めたんです。
 
これが地酒の道に入るキッカケのキッカケになったんです…今思えば。
 
最初の年は、ただの見学に終わったと思います。でも、見るだけでどうも
ピンときませんし、人間は見とれば必ずやりたくなるもんです。そこで
今度は体験させてもらう事をお願いし、約3週間続けて酒造りの体験というか
下働きのそのまた手伝いをさせてもろうたんです。
 
これはけっこう効きました。体力的にも精神的にも。
扱う物が米や水ですから重たいこと重たいこと。
また、何もかもが初めての事でしたから失敗のないようにと細心の注意を
払いながら、言われた事をこなしていくわけです。
 
そして、なんと言っても休憩時間のつぶし方が辛かったんです。
 
人と話すことが得意でない私は30分の休憩時間をどう過ごせばいいのか…
四畳半の休憩所に5・6人が座ってお菓子食べてお茶飲んで。
 
でも、この約3週間の体験は今でもとても役に立っておりますし、今でも
造りの時期には必ず逸見酒造には顔を出して酒造りを拝見したりいろんな方と
話をするようにしております。
で、
あの当時、逸見酒造のある方に言われたんです。
『伊藤さんに会いたがっとる人がおるんですよ。その人は、昔の伊藤さんの事を
よーく知っとるんですよ』と。
なんか気持ちが悪い感じがしたもんで、しばらくは知らん顔をしておったんです
が、ある年の酒造りの時期に偶然に逸見酒造でその人と遭遇したんです。
 
そうしたらその方はその場所が酒蔵であり、酒造りのアドバイスのために遥々
(当時は鳥取から)来られたにも拘わらず、仕事の話もそこそこに私に対して
自己紹介をしたり、一方的に話を始めてきたんです。
最初の年はそのくらいで終わったんですが、2年・3年とお会いする回数を重
ねるごとに話す時間も長くなり、ある年は食事を誘われたりもしました。
 
そして、ついにその時が来たのです。
 
その方は佐渡逸見酒造へ来る前に福井県の酒蔵に寄って酒造りのアドバイスを
するという段取りだったんですが、その蔵から一本酒を持ってきてくださって
『この酒をぬる燗で飲んでみなさい』と言うのです。
当時、酒の飲み方もろくに知らなかった私は、『純米酒を温燗で飲めッ?変な事
言う人だなー』なーんて思うたくらいでしたら。
でも、酒造りをアドバイスするくらいの人なんだから嘘を言う訳ねえだろうと
思い、半信半疑・騙されたと思うて燗して飲んだんです。
 
ここからです。この瞬間から。その酒を燗して飲んだ瞬間に
 
『目から鱗がボロボロと落ちていったんです』
 
酒というものが、日本酒がこんなにも美味しいとは知りませんでした。
そうです。知らんかったんです。それだけだったんです。
 
佐渡の酒は少しずつ飲み始めておりましたが、冷やで飲むばったりであんまり
美味いとは感じませんでしたし、まして新潟県外の酒なんて全くしりませんで
した。
 
その私に、ガツーンと衝撃を与えた酒と言うか感動させてくれた酒、それが
福井県大野市の 花垣 山廃純米 米しずく と言う酒なんです。
 
第一に色から驚いてしまいました。私が今まで飲んだ酒はどれも無色透明です。
それが日本酒だと思うておりました。でも、それは今思えば新潟県の酒だけに
言える事なのかもしれません。
この「米しずく」は黄褐色で、ただ濁ってはおりません。そしてアルコール度数
が15度台とほかの酒とおんなじなんですが、アルコール臭さを感じなかったんです。
円やかでアルコールがツンツンしてなくて、しかもうま味を感じたんです。
これには驚きました。いや、タマゲテシモゥタッチャー!って感じ。
 
それ以来、私にこの酒を紹介してくださった方とは今でもお付き合いをさせて
いただいており、今なお各地の素晴らしい地酒を紹介いただいております。
 
この方と逸見酒造さんで出会わなかったら、日本酒をこんなに好きになる事は
無かったでしょうし、地酒の道に入る事も無かったと思います。
その出会いの場を取り持ってくれた逸見酒造さんへ蔵見学に行かんかったら
そもそもこんな事も起こらんかった訳です。
 
ここに運命的なものを感じてしまいます。
 
この続きは・・・その弐をご覧ください。
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この一本に衝撃を受け…その弐

私が20年前以上前に体験した事。
酒販店の娘と一緒になった事。
私の母親の実家が造り酒屋だった事。
そして今、かろうじて酒の販売を続けられる事・・・などなど
その時には気が付かなかったいろんな縁が繋がって今の私たちがあるんだ
とつくづく感じてしまいます。

次に
私にこんな衝撃的な酒をくださった方の話をしなければなりません。

その方の名は 箕浦淳一 と言います。
私は気軽に「箕浦さん」と呼んでおりますが、酒造りのアドバイスを
受ける側の人からは「…せんせい」と呼ばれておるようです。

当時、箕浦さんは鳥取に住んでおりまして酒造りが始まると各地の
酒蔵を回り、良い純米酒を造るためのアドバイスをして二週間以上も
出たっきりの旅を続けては自宅に戻り、本を書くという生活をして
おりました。
(平成3年「ここに美酒(さけ)あり」同9年「吟醸巡礼」他多数)

この長い移動の旅を本人は「サーキット」と言っており、全国各地の
名産品の事や電車賃を節約する術も身に着けておりました。
で、サーキットの途中に佐渡の逸見酒造へと昭和の終わりころから顔を
出すようになったそうです。
そしてその数年後、私は箕浦さんと運命的な出会いをするわけです。

箕浦さんは昭和の終わり頃から酒造りの指導をしていたわけですが、
独り立ち?する前にはあの上原 浩先生のカバン持ちをされておったそ
うです。
そこで上原先生の指導方法や酒の利き方、話の仕方を酒造りの現場を通
じて習得されたようです。正に現場主義という考え方です。
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上原 浩先生と言えば皆さんご存知の通り、純米酒復活に命を燃やした
辛口の技術指導者です。漫画「夏子の酒」に登場する指導者上田 久
技師のモデルになった方です。
ここ佐渡相川で酒の会を開いた時も参加くださいました。
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そんな上原先生の弟子である箕浦さんが、私に会いたがっとる・・・
えー?いったいどんな人なんだ箕浦さんちゃー!

しゃべり方には特徴がありましたが、仕事となると(酒造りのアドバイス)
それは師匠である上原先生同様、歯に衣着せぬ物言いでズバズバと
単刀直入に話をする方でした。
傍らで聞いておった私は『この機会にいろいろと酒造りの事を教わろう』
といろんな事を質問しました。
そうして何度かお会いするうちに一度食事でも・・・という事になり
真稜の純米酒を飲みながら真野・潮津の里という宿で一献まじえました。
ただ、あちらは酒が強く、こっちは全く弱いもんで直ぐにいい気持に
なってしまいました。
すると、酒の話で始まった会話がどう言う訳かプロレスの話題に替わって
しまっておりました。『えっ?もしかして俺に話があるって言うのんは
この事か?』と思うたんです。
あとから判明したことなんですが、箕浦さんは無類のプロレス好きと
言いますか。プロレス狂、と言ってもファンの域を超えた何か凄い考え
を持った方のようでした。例えば「杜氏とプロレスラーの芸術的表現の
類似点相違点」などと言う論文を書き上げそうなくらい深い所までプロ
レスを掘り下げて追及しているような方なんです。

そして、私が昭和55年から8年間、新日本プロレスでお世話になった
事もご存じで、いや、だからこそ合って話がしたかったということだった
そうなんです。
いやいや、たまげてしまいました。
でも、これも一つの縁なのかもしれません。

?私の母親の実家が造り酒屋だった事
?私が今、酒の仕事に携わっている事
?日本酒の《い・ろ・は》を教えてくれた人が昔の俺を知っていた事
?もう一つ挙げれば私、水泳をやっておりました。ここ、伊藤酒店の
先々代が相川高等学校水泳部の後援会長だった事

こんな不思議な縁で今、人付き合いをさせてもろうとります。
不思議なものです。

この不思議な縁の?によって一本の純米酒に衝撃を受け今もなお
箕浦さんが紹介してくださる各地の純米酒に衝撃と感動を受けながら
仕事をさせてもらっておる訳です。

これからもいろんな縁を大切にして生きていかんければなりません。
人はひとりでは生きてはいけませんから。

という事で
一本の酒に衝撃を受けた話から・・・縁の話までといろいろ二転三転
しました。
だらだらと長くなりましたが最後までお付き合いいただきありがとうご
ざいました。

日本の伝統文化でもある日本酒をただの文化で終わらせたくないです。
ですから造り手の思いを理解しながらも、人と人との出会いの場を盛り
上げてくれる一つの道具として日本酒が役に立てるようにしていきたい
です。